本棚は生き物である
今週のお題「本棚の中身」
私は定期的に本棚の写真を撮ってる。本棚が違う様相になっているなと思う時があるからだ。
今回は5年分くらいの本棚の流れを思い返してみる。
私は大学生の頃、学生寮に住んでいて大きな本棚が元から部屋にあった。
本を買う習慣も借りる習慣もなく、本=勉強のイメージが強くて、あまり読まなかった。実家にも本はほとんどなかった。
この頃は主に漫画だった。
私は映画サークルに入って、その影響で今まで読んでこなかった漫画を読むようになった。漫画の流れに変化があった。
『めぞん一刻』『ザ・ワールド・イズ・マイン』などなどである。
さらに漫画は増えていき、メルカリで金もないのに漫画を揃えたりしていた。
『マインドゲーム』『コブラ』『超人ロック』『鉄コン筋クリート』『デビルマン』などなどである。
で、その時くらいから本も読み出すようになる。キッカケだと思うのが、友人が誕生日祝いで母親から貰った千葉雅也の『勉強の哲学』を借りて読んでみたことと、私の誕生日に読書量が半端ない先輩に山形浩生の『新教養主義宣言』を頂いて読んだこと。さらに、その本は書評をまとめたもので、その中のサミュエル・R.ディレイニーの『エンパイアスター』というSF小説に興味を持ち、先輩にそのことを伝えると貸してくれた。後から『エンパイアスター』を持っていることの凄みに気づくのだけど。後から気づくこと次第が自分が『エンパイアスター』の主人公のコメット・ジョーみたいで笑ってしまう。今もそうだけど、ジョーに自分を重ねていた部分がある。
そこから手当たり次第、興味を引いたものを買ったり借りたりしているうちに本棚から溢れた。
積読が始まった。とにかく積まれていった。この時期は哲学や人類学など学問領域の本を読み始めた。知らない言葉やわからない事もあるけど、とにかく面白かった。頭の中に中身のない巨大な箱が出来る感じだった。
卒業後、私は一軒家に居候することになり、新しい本棚も備えて何か安定した状態に入った。固定的になった。
そこから一年後に上京することになる、その間に色々あった。住むのはドミトリーで本棚を持っていけない。一軒家から今度は2段ベットだけの生活になる。だから一旦、本棚は空っぽになった。本棚はジモティーで売った。
そして、いま、また新しく、別の生き方で、小さい何かが生まれつつある。今回はどうやら、本棚という型がなく、先に本があるようだ。楽しみだ。
本は競争じみた所もある。何を読んでるか、どこまで理解があるか、ちゃんと読めよと頭の中で鳴り響いてる。その面も重要だと思う。けど、ちゃんと読むことに囚われ過ぎると生き物にならない気がする。この蠢く本棚がどうなるかは知らない、けど蠢いてるのならそれでいいじゃないかと今はとりあえず思っている。で、これを読んだ人の本棚が少し蠢きはじめたら面白いなと思う。